魚眼プール






























 扇風機の駆動音と、蝉の声に紛れて、水の音がしている。彼はブリキのコップの中で魚眼を飼っていた。寝返りをうって、バタイユの文庫を相手に呪詛のような言葉を呟いている。彼女は何もきこえないふりをしながら、脱ぎ捨てられた制服と、イアフォンを耳につっこんで背を向けた彼の裸を傍目に、理科の教科書をめくっていた。乾燥した精液で貼りついたページを剥がす度に、少し嗜虐的な、プールサイドに寝そべった校舎の影が夏に焼かれているイメージが、爪を立てて、皮膚の裏側をなぞる。彼女はプールの授業がきらいだった。カルキのにおいと、クラスメイトの濡れた肌と、何よりそれらと一緒に同じ水へ潜るという行為に、言いようのない嫌悪感をいだいていた。口の中が乾いている。振り返って、彼に声をかけようかとしたが、しなびた舌が思うように動かず、再び視線を教科書へ戻すことになる。赤と青で塗りわけられた心臓のイラスト、電圧計と電流計のマーク、正しい順番に並べられた細胞分裂の写真、駄菓子屋で売られているみたいなBTB溶液の色、周期表、分子モデルの模型、アンドロメダ銀河、レーウェンフック、受精卵。彼女には唇から剥がした皮膚を咀嚼する癖があった。噛み締めた時に分泌される唾液の味と、細胞の死臭とが喉の奥で混ざり合い、全身を廻って、あらゆる粘膜に付着する。双子葉類の茎の断面、銅と硫黄の化合、位置エネルギーと運動エネルギーのグラフ、ムラサキツユクサの染色体、凸レンズ、プロミネンス、オキシドールと二酸化マンガン。ベッドのスプリングが軋んだ。彼がこっちを見ている。額の汗で濡れた前髪の奥から、4Bとか6Bの鉛筆で塗りつぶしたような、光のない目が覗いている。喉が渇いた、と伝えると、彼はうつ伏せになってベッドの下に手を伸ばし、コンドームの口を解いて彼女へ投げた。セキツイ動物のなかま、と見出しのあるページの、魚の写真がこぼれた精液でまみれる。急にまた、扇風機や蝉や水の音が、うるさく、粘っこく彼女の裸へまとわりつき始めた。彼女は理科の教科書と、窓際に置いてあったコップを掴んで、浴室へと走った。彼は再生の止まったイアフォンを引っこ抜いて、開いた状態で伏せられていた文庫本を拾い、立ち上がる。蛇口を閉めたときの、小動物の悲鳴に近い音がきこえる。彼女は床の青いタイルへ膝を突き、理科の教科書を浴槽へ沈めていた。シャワーヘッドで水をかき混ぜると、波打つ教科書のページから卵白のような精液がひろがって、毒にやられて死ぬ間際の、ダンスに似た伸縮を見せるようになる。コップの中身を放流する。無数の魚眼が旋転しながら、精液に絡みつかれて沈んでいく。嗚咽する彼女の後ろで、扇風機の駆動音と、蝉の声に紛れて、文庫本が床へ落ちた音がした。








































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